⒈ナリタブライアンについて振り返る
競馬が好きでない人でもナリタブライアンの名前を聞いたことがある人は少なくないでしょう。
ナリタブライアンは牡馬クラシック三冠を達成した名馬ですが、その後に同じく三冠を達成するディープインパクトやオルフェーヴルなどと比較しても最強の競走馬だったと評する往年の競馬ファンは少なくありません。
では、その生涯を振り返ってみましょう。
ナリタブライアンは1991年5月父ブライアンズタイム、母パシフィカスの間に生まれましたが、半兄は名馬ビワハヤヒデということもあって、注目を集めていました。
ただ、デビュー前から絶大な評価をされていたかというとそうでもなく、デビュー戦では2番人気で2着と、まだこの時点で三冠馬となることを予想していた人は少なくありません。
その後は2戦目を勝利するものの、3戦目の函館3歳ステークスでは6着に終わるなど、順調に勝ち上がることができませんでした。
しかし、転機が訪れたのは6戦目の京都3歳ステークスでした。
⒉シャドーロールを着用して臨んだ京都3歳ステークス
名馬と呼ばれる競走馬に欠かせない要素のひとつが勝負根性ですが、時に勝負根性が悪い方に影響を与え、レース前にテンションが高かったり、レースの道中で引っかかってしまい直線まで脚をためることができなかったりすることもあります。
ナリタブライアンにもこの傾向があり、レースが近づく頃から既にテンションが高く、レースまでにコンディションを維持することが難しいだけでなくて、レース中も馬の影など足元が気になってレースに集中できないといった状態でした。
そこで、シャドーロールを着用して臨んだ京都3歳ステークスでは3馬身半の圧勝を飾り、ここから連勝街道をひた走ります。
そして迎えたクラシック三冠の初戦、皐月賞では3馬身半、日本ダービーでは5馬身の圧勝劇を見せてくれます。
しかも、皐月賞では最後の直線でなかなか外に持ち出せない不利があり、日本ダービーでも直線で外にもたれたにもかかわらずこの着差でした。
そして菊花賞では7馬身差と他馬を寄せ付けることなくみごと三冠を達成します。
⒊武豊曰く、兄ビワハヤヒデより強かったナリタブライアン
また、その年の暮れのグランプリ有馬記念でも古馬を寄せ付けずに圧勝し、年間でG1レースを4勝し、年度代表馬にも輝きました。
ちなみに有馬記念ではビワハヤヒデとの兄弟対決が期待されましたが、ビワハヤヒデは天皇賞秋の故障により引退することが決まり、その対決は実現することはありませんでした。
なお、ビワハヤヒデの鞍上であった武豊ジョッキーはナリタブライアンの方が強いと感じていたようです。
しかし、年が明け5歳になると阪神大賞典を圧勝するものの、その後股関節炎を発症し復帰戦の天皇賞春では12着と惨敗、その後のジャパンカップ有馬記念も勝つことができませんでした。
そして、6歳になって出走したレースは1200メートルの短距離G1の高松宮杯でしたが、2番人気に支持されるものの結局4着に終わり引退となりました。
こうした5歳からの戦績の陰りについては、調教師に対してかなり厳しい視線が送られていました。
⒋調教師の判断はどうだったのか?
まず、5歳時の天皇賞秋ですが、休み明けでほとんど調教をすることができない状態で出走したものでしたし、高松宮記念に関しては現在ではもちろんのこと当時も長距離路線の馬を1200メートルのレースに使うことはほとんど例がなく、こうした調教師の判断を「人間のエゴ」と厳しく断罪することも少なくありませんでした。
また、引退後は種牡馬となりましたが、2年後に胃破裂により死亡し、その産駒はわずか2世代のみとなり、重賞ホースを排出することはできませんでした。
このように5歳以降は決して順風満帆とは言えない人生でしたが、それでも4歳時にはレース中ライバルに影をも踏ませない強さを誇ったナリタブライアンの栄光が陰ることはありません。